和式トイレの勧め

記憶にある初めてしゃがんで排泄したのは今から20数年前、大学1年生のときだ。それまで学校で用を足したことなどなかった。だが、そのときはどうしても外で用を足さざるを得ない必要性に迫られていたのだろう。恐る恐る和式トイレにしゃがんでみる。しかし、長らく座って排泄することしか知らなかった私の足は初めての経験に文字通り震え慄いていた。排泄後のそれまで感じたことのない解放感と共に自分のこれまでの暮らしは何かがおかしいのではないかという漠然とした思いが頭の中に渦巻いていた。

この漠然とした疑問がはっきりとした形をとったのはG.I.グルジェフ氏の「ベルゼバブの孫への話」を読んだときだった。そこには和式トイレが排泄の姿勢として正しいものであること、そしてある時期を境に人々はその自然の正しさを受け入れ、理解することができなくなってしまったことが書かれていた。

この章を読んでから私は無性に和式トイレを使いたくて仕方なかった。しかし、住んでいたマンションはもちろん洋式。当時はまだどこに行けば和式があるかという勘も知識もなかった。仕方ないので、時間を見つけてはしゃがんだ姿勢(いわゆるウンチングスタイル)の練習に励んでいた。

そのうち30分ほど歩いた公園には和式トイレがあることを知り、ときどき通うようになった。その後、引きこもりをやめ、本屋さんの倉庫でバイトするようになってからも出勤前に駅前の和式で用を足してから会社に向かっていた。

それからも、中国、香港をほっつき歩いていたときには、宿のトイレは極力使わず街中にある真っ暗なトイレや通称ニーハオトイレに果敢に進入して用を足したものだ。愛媛の農園で草刈りとみかん取りに明け暮れていたときも、住み込みの築100年を越える古民家は和式トイレだった。

現代においてほぼ絶滅したように思われている和式トイレがその価値に気づいたときからいつも身近にあったというのは不思議なものだ。引き寄せかもしれないし、現実創造かもしれない。あるいは知恵ある人々がこの素晴らしい器具を取っておいてくれたのかもしれないし、単に新しいものを買う余裕がなかったのかもしれない。

どんな理由であれ、おかげでこの点に関しては幸せに暮らすことができた。和式トイレで用を足すと何とも言えない解放感を味わうことができる。言うなれば、ことが終わった後に自分は今からっぽなのだ感じられるのだ。そして過去の知恵ある人々がすでに気づいていたように腸と脳には深い関わりがある。またこの特有の姿勢を取ることで鍛えられる筋肉も心に強く作用する。つまり足腰が鍛えられれば人は少しは落ち着くものだ。これらのことはグルジェフ氏やシュタイナー先生のような霊的な指導者だけではなく、一部の現代の科学者たちも認めていることだ。

20数年前に和式トイレで感じた違和感はその後、様々な分野で顕在化し、特にグルジェフ氏の本を読んでからは私の人生のテーマになっている。それは一言で言えば、私たちが普通と思っている暮らしは眠りの中で営まれているということだ。もちろん私も眠っている。けれど、グルジェフ氏がその著作の中で述べているように、このしゃがむトイレは邪神自己鎮静に仕えることを許さず、一日のうちのほんの少しの時間であってもクリアな目覚めた意識を与えてくれる。人が高い精神性とは最も遠いところにあると思う排泄という行為もまた目覚めへの風穴になり得るのだ。

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