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13歳の時のような友達は二度とできない

このタイトルは「スタンドバイミー」のラストシーン、パソコンのスクリーンに映し出される文章をもじったものだ。本来は12歳の時であり、実際彼と初めて会ったのは12歳の時だったのだが、自分の感覚としては13歳から14歳というのが最も鮮烈な時として印象に残っている。

彼、I君としておこう、に初めて出会ったのは中学校に入学したとき。けれど、どんな風にして話すようになったのかは全く覚えていない。中学生男子の関係なんてそんなものだろう。いつの間にか仲良くなって、いつも自転車に乗って一緒に出かけるようになる。I君も私も大人しいというか一言で言うとオタクだった。私は髪型や行動が目立つので不良グループに目をつけられやすかったが、I君にはそんなことはなかったように思う。彼は長身というほどではないが、すらっとしていてサラサラの黒髪で、歳の割に落ち着いていた。今思い出せば、時々老人のように見えることもあった。多分、彼にはその頃、本当に子供であった私たちよりだいぶ多くのものが見えていたのだろう。

彼のお母さんは白血病を患っていて、入院していて家にいないことも多かった。そんな親のいない家は悪ガキどもの溜まり場になりそうなものだが、記憶にあるのは大概彼と二人で薄暗い部屋でロールパンを齧りながら、ゲームをしたり、漫画を読んだりした情景だ。そこに他の友達の姿はない。強いて言えば、彼の二つ下の妹が黙って後ろからゲームのスクリーンを眺めていることがあったくらいだ。彼女も線の細い美人になりそうな子であったが、私はほとんど言葉を交わすこともなかった。6時になると彼のお父さんが帰ってきて「もう帰りなさい」と有無を言わさぬ調子で告げて、私は自転車に乗って夕闇の中、家路を辿るのであった。

私も彼も父親との関係に問題を抱えていたが、そんなことを話し合った記憶はほとんどない。彼の叔父が彼のお母さんへの骨髄移植を拒んだこと、お父さんは外で女の人を作っているというような話を聞いたくらいだ。私としてはそんな大人の世界の話、ましてや人の家のことにどう反応して良いかわからないので、ただ頷いているだけだった。だから基本的にはいつもゲームか漫画の話をしていた。将来の夢とか、好きな女の子のこととか、普通の男子なら話すのかもしれないようなことも一切話さなかった。そんなことを話すのは恥ずかしかったのか、現実に嫌気がさしてほとんど架空の世界に生きていたからかはわからない。そういうことを話し合っていればよかった、そうしていれば今も交流が続いていたかもしれないという思いとそれでよかったんだという思いが交錯する。

中学3年の時、彼の母親が亡くなった。葬儀のとき、妹は泣きじゃくっていたが、彼は涙を見せなかった。今なら、どれほど彼が悲しみを抑え込んでいたかわかるが、その当時は考えも及ばぬことであった。葬儀が終わってしばらくして彼もまた学校に戻ってきたが、私たちはどう話しかけて良いかわからなかった。この時のことだと思うが、彼が学校を休んでいる間、誰かが彼の机にガラス瓶を花瓶に見立てて置いていたような記憶がある。こんな残酷な冗談も私は笑って見ていたのだろうか。学校で起こった馬鹿げた出来事を思い出すたび、その時私はどうしていたのだろう、I君はそして私が小学5年生の時から想いを寄せていたOさんはどうしていたのだろうと思うのだが、思い出せない。覚えていないということは誰もそのことに対して表立って抗議はしなかったのだろう。ともあれ、この時も彼の方から笑顔で私たちの輪の中に入ってきて、私たちはまるで何事もなかったかのようにまたくだらない話を始めるのだった。

一度、友達何人かで話している最中、彼が私に「親友だと思ってたのに」と言ったことがあった。冗談めかしてはいたが、私のことを親友と呼んでくれたのは後にも先にも彼一人である。私はとても不思議な感じがして何も冗談で返すことができなかった。

高校受験が近づいてくると私は父の指導のもと必死で勉強することになった。欠席続きで内申点の悪かった私は中堅校に入るにもそれなりの高得点を取らねばならず、担任のもっと下のランクを受けるようにという助言を無視してのことだった。一方の彼は余裕で行ける高校を選択していたので、皆がゲームを我慢している中、受験間近に発売されたゲームを早速買っていた。私がゲームを我慢しながら必死に勉強して入れた高校と彼が鼻歌を歌いながら合格した高校は一緒の学校である。

私はこの高校に馴染めず、1年生のはじめ2日くらい行ってから、1学期はほぼ全て休んだ。その間、彼と連絡を取っていたのかは覚えていない。当時は携帯電話と言えば、かなり遊んでいる一部の高校生だけが持っているもので、我らオタクには縁のないものだった。彼も高校に入ってからは卓球部に入ったので忙しくしていたのかもしれない。

2学期になって学校に行くようになると、自分のクラスに居場所のなかった私は昼食を食べ終わるといつも彼の待つ図書室に行っていた。彼はいつも「ペパーミントの魔術師」のようなライトノベルを読んでいた。この頃になると中学生の頃ほど遊ぶことは無くなっていたと思う。それでもたまに行き来して彼が私の家で夕食を食べていくことも何度かあった。母は彼のことを気に入っていて、「白いチノパンが似合うね」と言っていた。そんなある夕暮れ、彼がうちから帰るとき、ボソッと「お前はいいなぁ」と呟いたことがあった。私にとっては居心地の良い反面窮屈な家でもあったが、母親が作り出してくれる温かで家庭的な雰囲気は彼には羨ましく映ったことだろう。

3年生のとき、ついに彼と一緒のクラスになった。大概、何をするにも一緒にしていた。けれど、迫ってきた大学受験のことを話すことはほとんどなかった。そして、ゲームの趣味も少しずつ変わっていた。私が変わらず、有名な大作ゲームを楽しみにしていたのに対し、彼はもっと静かで内容のあるゲームを求めていた。それでも、彼はうちに「エリア88」という漫画を全巻持ってきてくれたり、彼が見つけたマニアックなゲームを貸してくれたりしていた。

一度、受験のことを話したことがある。確かもう秋頃だったと思うが、彼が小論文の模範解答を見ながら、「結構ちゃんと書かなきゃダメなんだなぁ」と言ったことがあった。Z会の通信教育と参考書で勉強していた私は「そんなん当たり前やん」と思ったけれど、何も言わなかった。

年が明けた頃から彼は胸が痛いと言うようになった。現在のようにちょっとした知識があればなんとかしてあげることができたかもしれないが、当時は病気を自分で治すということは考えなかった。それから少しして担任が「I君は肺水腫で入院しました」と言った。お見舞いに行こうと思ったが、担任に入院した病院を聞くのも面倒くさく、と言って彼の家に電話するのも嫌で、結局そのまま行かなかった。

2週間くらいして彼は戻ってきた。彼が母を亡くした時のように私は彼に話しかける言葉を持たなかった。そして今回は彼も笑って話しかけてくることはなかった。私は彼にも自分にも理不尽な怒りを感じていた。なぜ友達が入院したのにお見舞いに行かなかったのか、なぜ、こんな大事な時に病気になるのか。そして何より、異常なほど肥大した自我は受験に失敗することが怖くてしかたなかった。自分がどこの大学を受けるかをひたすら隠したかった。思い出す景色はひとつだ。彼はグラウンドに続く階段の観客席の上に学ラン姿で立っている。私たちは体育の授業が終わり、校舎へ戻ろうとする。彼の姿が目に入るが、私は声をかけない。代わりに誰かが彼に話しかけている。彼は私の方を見ていたような気もするが、私はそのまま校舎の中に入っていく。

私は意中の大学に合格したが、高校のレベルからするとかなり珍しいことで、それが人に知られることさえ恥ずかしかった。そして、卒業式も欠席し、後日、職員室に卒業証書を受け取りに行った。

そのまま彼と会うことはなかった。恐らく、高校を卒業してしばらくは同じ家で暮らしていただろうし、仮に一人暮らしをしていたとしても電話してみればお父さんか妹が出て教えてくれただろう。けれど、私はそうはしなかった。

20代の頃、中学生の日々が懐かしくて仕方なかった。現実には嫌なこともたくさんあって、苦しい日々だったが、記憶の中で、その日々は輝いていた。当時遊んだゲーム、友達の姿、淡い恋心、そんなものが懐かしかったのだ。今、日々は満たされていて、もう14歳の頃を懐かしく思うことはない。そして、彼についても随分美化した記憶をもって、それに応えなかった自分を責めていたと思う。しかし、実際には彼も私が学校に行かずに家で苦しんでいた頃、助けには来てくれなかったし、中学の修学旅行のグループ分けでは休んでいた私は仲間はずれになり、彼は他の友人たちとグループになっていた。

どうしてこんなことを書こうと思ったのだろう。書くということ、書かれるということにどんな意味があるのだろう。ただ確からしいのはここに書いたことは書かれるのを待っていたということだ。私がブログに誰かの役に立つことを書いて検索上位に上がるようにと四苦八苦して結局何も書けないでいるのをやめて、書きたいことをなんでも書いてみようと思ってわりとすぐ、他の書いてみようかと思っていたことよりも先にここに書いた文章の大枠が夜寝る前に浮かんできた。ここに書いたことがこれらの出来事にとって慰めになったのか喜びになったのか私にはわからない。けれど、どこかに悔いのある出来事にもう一度向き合うことで、それでよかった、この形以外はなかった、少なくとも今の私にとっては、ということがはっきりしたのは収穫であった。

今となっては彼が生きているのか死んでしまったのかさえわからない。しかし、それもどちらでも構わない。人が一緒にいられる時間は前もって決まっているのだから。

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アトピーが導いてくれた その2

太極拳を始めたことで、体力がついてアトピーも安定してきた。自然と教室に来ている人とも関わるようになり、朝から酒を飲んで練習に来るおじさんと昼ごはんを一緒に食べて帰ったりしていた。教室は木曜日の午前中で私のほかにもう一人整体師の若者がいたが、あとは引退した人たちばかりであった。けれど、誰も私がそんな時間に通っていることを気にも留めていなかったと思う。お金はどうしているのと思われても仕方ないが、もちろん親に払ってもらっていた。それは師の教えでもあった。使えるものはなんでも使ってこの状況から抜け出した方がいいよ。親にお金を払ってもらってもいいじゃない。そう言われて、私も気にせず通っていたが、師は習い事だけしてなかなか仕事を始めようとしない私に厳しくなっていた。この頃、セラピストに憧れて、その勉強の意味もあってホメオパスの元に通っていた。その効果はあまりわからなかったが、県内では有名なローカルチェーンの書店外商部でのアルバイトが決まったのは、ホメオパスが確信をもって処方してくれたレメディを摂った直後だった。

アルバイトとはいえ、仕事をするようになって、いくらか自信がついてきた。太極拳に通っている人からも輝いているねと言われた。アトピーもこの頃はかなり安定していた。それでも完治するということはなく、私は新しい療法を探し続けていた。

そんな折、師が開いたワークショップである特殊な方法でアトピーが治ったという人がいて、師はもしやってみたいなら詳細を聞いてあげるよと言ってくれた。私は少し考えてこの話を断った。自分の力で治したい。自分の内側にある力で治るはずだ。そういう強い思いが湧いてくるのを感じていた。

野口晴哉さんの『風邪の効用』はその思いに応えてくれるものだった。このときには面白い本を読んだら今度はその場所に実際に行ってみるようになっていたので整体協会の本部に行ったり、会社近くの野口整体の流れも汲む整体師の元にも通ったりしたが、どうもピンと来なかった。

ある日西荻窪で友達を待っている間、駅前の本屋颯爽堂で立ち読みしていると面白いタイトルが目に留まった。『病むことは力』。野口晴哉さんの弟子だが、整体協会からは離れ、自身の組織を築いた金井蒼天さんが書いた本である。そこに書かれている病みながらも、活元運動を通して、自分自身と出会い、回復していく人々の姿は私が探していた治療を越えて、癒やされていく何かであった。

隣町で金井先生の奥さんが活元会を開いていたので、行ってみた。そこはそんなに自分に合う場所ではなかったが、翌日の排泄が気持ちよく、活元運動によって体が変わることは確かだった。そこで今度は池袋で別の弟子が開いている会に参加してみた。そうお察しの通りここが私の求める場所だった。こうして当時はただしつこさの賜物だと思っていたのが、実は何か不思議な力によって導かれていたのではないか、と思うようになったのは最近のことである。この活元運動の会にときには週に2回通い、個人指導も受けることで、人生に勢いがついてきて、ついに韓国に一人旅に行くまでになる。

アトピーがあって、億劫になることは旅行と恋愛だろう。旅行は寝具を汚したらと思うし、こんなにボロボロの肌では誰も好きになるまいと決めつけるのだ。つまりは自分に自信がないのだ。その上、家から遠く離れたときや水分が足りないときに不安になる傾向もまだ残っていた。仕事をするようになってからは沢木耕太郎さんの『深夜特急』の番外編『旅する力』の少年時代の沢木さんを真似てホテルの予約もせず、各駅停車に乗ってあてもなく旅をすることを長い休みのたびに繰り返していた。それでも海外に一人で予定も立てず行くのはなかなか勇気のいることだった。

その後、気づけば6年も続けていた書店外商でのアルバイトをやめ、船で中国に渡り、目的地は陸路でインドと定めた旅に出るときも、なかなか出発せず、ぐずぐずしていたが、活元運動の先生に背中を押され、自分でも日本にいても死ぬときは死ぬのだと出発したことを思い出す。

結局、インドどころか、香港からベトナムへバスで行こうか迷った挙句、旅で新しいものを受け入れるのがお腹いっぱいになっていたので、北京に寄って帰国することにする。帰国後、書店員でも旅人でもないただの私に戻った私はまた不安定になり、アトピーがひどくなる。でも、香港にいたときにこれまでにないほどの回復を経験していたおかげでまた船に乗って中国に行けば治るんだとそこまで悲観しないようになっていた。

また偶然の本との出会いが私の人生を進めることになる。そろそろこの記事のタイトルを本が導いてくれたに変えてもいいような気がしてきた。本の名は『わら一本の革命』。アトピーのために母が食事に気を遣ってくれていたので、生協のカタログを通して有機農業には興味があった。しかし、身近に畑仕事をしている人は知らないし、農業には機械と土地が絶対必要だと思っていたので、自分には縁がないと諦めていたのだ。それがこの本を読んで変わった。なんとなく自分でもできそうな気がしたのだ。これは勘違いだったとも言えるし、けれど今実際に機械なしでお米を作ることができたのだから正しかったとも言える。農地も厄介者扱いされるようになったのはちょうどこの頃からなのではないか。色々な農家を回った末に著者の故郷愛媛の福岡自然農園に赴き、研修生として受け入れてもらう。日々の野外でのなかなかきつい仕事はアトピーには良かったらしく見る間に回復していく。

正規の仕事をしたこともなく、アトピーで、実家に暮らしていた私は恋愛に全く奥手だったが、農園では研修に来ていた女の子たちと仲良くなることができた。それは香港で亜熱帯の島特有のスコールを浴びながら、こんなに遠くまで一人で来れたと涙したのと同じく、かつて自分がいると思っていた場所からはるか遠くに来た出来事だった。

その後、私は農園で出会った女性と結婚し、農園を二人で旅立ち、今は島の自然の中で私たちがやることを探しながら暮らしている。その間にもまたアトピーがひどくなることはあったが、四柱推命の占い師の方に教えてもらったようにアトピーがひどくなるというのは何かが間違っていることを教えてくれているのだと思えるようになった。

そして、今信頼を寄せている整体師の先生の言う通り、自分自身に戻ることができたらアトピーは治るのだと知っている。もちろんアトピーだけでなく、他の病気もそうらしい。

アトピーはいつも私と共にあり、私を導き、私の行動を規定してきた。それは不自由なことも多く、理不尽で度々私を怒らせてきた。今後もアトピーで苦しむこともあるかもしれない。けれど、私は知っている。アトピーはそうやって私を導いてくれている。私が歩むべき道を歩むように。

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アトピーが導いてくれた

生まれたときからアトピーである。生後6ヶ月の写真ではアトピーらしい少し赤みがかった顔をしている。それでも中学生まではたまに薬を塗るだけでさして不自由もなく暮らせていた。だが、中学に入るとストレスとホルモンの変化がアトピーにも大きな影響を与えるようになる。高校に進学してからも一年、二年次の半分は学校に行かず、家でゲームばかりしていたせいもあって、とても悪化した。目の下の皮膚の薄い部分がめくれ、とても痛かった。図書館に行き、本を調べ、電車に乗ってその本おすすめの皮膚科医に通ったが、結局は通常のステロイド治療であり、皮膚は多少治ったが、病症が内側に抑え込まれただけのことであった。

薬を真面目に塗り始めてしばらくして、暑くても汗が出ないことに気づいた。母に言ったが気のせいでしょという感じであまり取り合ってもらえなかった。私もそれでなんとなくまあいいかと思って、忘れてしまっていた。しかし、大学二年生のとき、夏に散歩中に熱中症になり、それがきっかけとなって暑くなると動悸がしたり、眩暈がするようになったりして、いつしか電車にも乗れず、半寝たきりのような暮らしになってしまった。

夏が過ぎ、涼しくなるとどうやら起き上がって外に出られるようにはなったが、ごはんが喉を通りにくかったりと気分はそんなに良くなかった。自分の人生も日本という国も地球も全てお先真っ暗のように思っていた。

その頃よく通っていた古本屋に『タオのプーさん』は置いてあった。その本はそれまで読んできた本、マンガ、ゲームとは別なことが書いてあった。今まで私が触れたものにはどれも争いが描かれていた。ゲームやマンガは戦いがなくては成り立たない。しかし、大学に入ってから読むようになった本も皆なんらかの形での争いが描かれていた。それは例えば自己批判や他人、社会への批判、難解な理論をこねくり回すことなどであったのだけど、目には見えなくても根底には調和ではなく闘争があった。それは長年の教育の結果身についていた私の生き方にも合致していた。『タオのプーさん』には周りの人や自然と調和して、自分のままで生きていくことがくまのプーさんを通して描かれていた。その読後感は不思議なものだった。これでいいのという感じだった。

それで、私は全てを悟り、調和のうちに人生を終えたということにはならなかった。この本がとても素敵なことを話してくれているのはわかったが、日々の暮らしでどうしていいのかはさっぱりわからなかった。それで私は以前のように些細なことで怒りながらそれでもタオイズムの本やくまのプーさんをはじめとする児童文学を読み漁っていた。

『タオのプーさん』は不思議な本だ。この本の監訳者の吉福伸逸さんはその後出会うことになる私の人生の方向を完全に変えてくれた人の師匠のような存在だし、著者のベンジャミン・ホフさんがやっているという太極拳は私も数年後習い始め、今でも毎朝練習している。ちなみにホフさんの仕事は植木屋のようだが、この本を読んで15年以上経って植木屋で働いてみたのもこのときの憧れからかもしれない。

こうして絶望の闇の中に一条の光が差し込み、私は少しづつ回復していった。近所の漢方薬局に通うようになり、漢方薬を調合してもらって、ステロイドをやめた。離脱症状はかなりひどくて毎晩血だらけになったが、薬剤師の支えで乗り切れた。祖母に紹介してもらったカイロプラクティックにも通い始め、姿勢もだいぶ良くなった。このカイロプラクティックの先生には太極拳を始めたらと言われ、今はなき日本気功協会で太極拳の師に出会うことになるのだが、当時の私には太極拳がわからず、2回行ったきりやめてしまった。2回目のとき、手持ちのお金が2000円しかなく、体験料のうち500円が払えなかったので、後日横浜そごうで開かれていたカルチャーセンターの先生の教室に行こうとしたのだが、あまりに場違いな雰囲気に尻込みしてしまい、500円は借りたままになっていた。

数少ない友達の助けもあり、なんとか大学は卒業したが、就職活動はとてもできなかった。四年次の終わり、卒業式も間近の頃に学生課に求人票を眺めに行ったが、コーンスターチの会社の募集しかなかったのをよく覚えている。どんな企業であれ、自分がスーツを着て、会社で働いている姿というのは想像できなかったし、自分に社会に出て仕事をする力があるとは全く思えなかった。

こうして私はどこへも行かず、家にいて図書館で本を読むことを選んだ。実家にはいづらくて、祖母の家にいることも多かった。そんな日々にアンドルー・ワイル博士の『癒す心、治る力』に出会った。この本は『タオのプーさん』を読んで感じた疑問、でも毎日大変なんですけど、どうしたらいいんですかという疑問に食事、運動、瞑想などの具体的な内容で答えてくれていた。そしてその根底には『タオのプーさん』と同じ争わない心があった。ワイル博士を経て、ラム・ダス、マハラジ、グルジェフとそんなことが現実にあるとは数年前までの自分だったら信じられないようなことが書いてある本に巡り合うことができた。

しかし、全ては本の中の出来事であった。現実世界に立ち返ると私は変わらず、無力であった。この頃、アトピーはプロトピックという薬を使ったことがあるからという理由で治療自体は断られた漢方医院で教えてもらった砂糖と肉などの油っぽいものを一切断つという極端な食事法により、一応の落ち着きを見せていた。だが、パニック障害のようなものは治らず、電車に一人で乗るのは恐怖であった。

そんな夏のある日インターネットでグルジェフのことを調べていた私は彼の孫弟子がイギリスから日本に来てワークショップを開くという記事を見つけた。詳しくは覚えていないが、参加費は高くなく、誰でも参加できるものだった。会場は秋葉原。東京まで一人で電車に乗るのは無理だったので、迷ったが、ついに当日に申し込み、そのまま慌てて母に秋葉原までついてきてほしいと頼み、電車に乗った。2008年7月。暑い日だった。大学を卒業して3年半が経っていた。

ワークショップの主催者の方が迎えに来てくれていたが、後で影から見ていた母に聞いた話によると、彼は駅で誰かを待っている風の人に誰彼構わず話しかけていたらしい。一応、私の外見的特徴をメールで送ったはずなのだが。ともあれ、やっと私が見つけ出され、駅なかのカフェで面談してから会場へ行くということになった。その前に面談を受けていたのは小太りのおじさんであった。数分待つとおじさんの面談は終わり、私が呼ばれた。彼との面談で、卒業して半年ですと嘘をついたのは覚えている。半年か、そろそろまずいなという彼の反応も。いや実はね...

この私の前に面談していたおじさんこそ、その後の私の人生をすっかり変えてしまうことになる教えを授けてくれた人であり、私が初めて出会った本の中にしかいないと思っていたような人物であった。それは私がグルジェフやマハラジの本を読んで長らく待望していた師と呼べる人だった。

帰りの電車の方向が一緒だったので、色々と話してもらい、後日もう一度ワークショップで会い、習い事でもなんでもいいからまずは外に出る練習をして仕事を探すのはそれからにしてごらん。梯子を一段づづ登るのと同じでいきなり大学教授になりたいと言ってもそれは無理な話だよと言われた私はとてもゆっくりなペースながら、習い事を探し始めた。

いくつか試したのち、ふと思い出して、4年前に2回行き、500円借りたままになっている太極拳の先生に連絡を取ってみた。実は習い事を探し始めたときにもメールを送ったのだが、そのときは返信がなかった。今回はすぐ返信が来て体験は許可された。水道橋にある教室に入った瞬間、ここが探していた場所だとわかった。先生も前回とは比べ物にならない熱心さで教えてくれた。

こうして私の人生は二人の師によって彩られていった。まだ小さな一歩を踏み出したばかり、でも誰かが言っていたように師に出会うことができたなら、人生半分はクリアしたようなものなのだ。