アトピーが導いてくれた

生まれたときからアトピーである。生後6ヶ月の写真ではアトピーらしい少し赤みがかった顔をしている。それでも中学生まではたまに薬を塗るだけでさして不自由もなく暮らせていた。だが、中学に入るとストレスとホルモンの変化がアトピーにも大きな影響を与えるようになる。高校に進学してからも一年、二年次の半分は学校に行かず、家でゲームばかりしていたせいもあって、とても悪化した。目の下の皮膚の薄い部分がめくれ、とても痛かった。図書館に行き、本を調べ、電車に乗ってその本おすすめの皮膚科医に通ったが、結局は通常のステロイド治療であり、皮膚は多少治ったが、病症が内側に抑え込まれただけのことであった。

薬を真面目に塗り始めてしばらくして、暑くても汗が出ないことに気づいた。母に言ったが気のせいでしょという感じであまり取り合ってもらえなかった。私もそれでなんとなくまあいいかと思って、忘れてしまっていた。しかし、大学二年生のとき、夏に散歩中に熱中症になり、それがきっかけとなって暑くなると動悸がしたり、眩暈がするようになったりして、いつしか電車にも乗れず、半寝たきりのような暮らしになってしまった。

夏が過ぎ、涼しくなるとどうやら起き上がって外に出られるようにはなったが、ごはんが喉を通りにくかったりと気分はそんなに良くなかった。自分の人生も日本という国も地球も全てお先真っ暗のように思っていた。

その頃よく通っていた古本屋に『タオのプーさん』は置いてあった。その本はそれまで読んできた本、マンガ、ゲームとは別なことが書いてあった。今まで私が触れたものにはどれも争いが描かれていた。ゲームやマンガは戦いがなくては成り立たない。しかし、大学に入ってから読むようになった本も皆なんらかの形での争いが描かれていた。それは例えば自己批判や他人、社会への批判、難解な理論をこねくり回すことなどであったのだけど、目には見えなくても根底には調和ではなく闘争があった。それは長年の教育の結果身についていた私の生き方にも合致していた。『タオのプーさん』には周りの人や自然と調和して、自分のままで生きていくことがくまのプーさんを通して描かれていた。その読後感は不思議なものだった。これでいいのという感じだった。

それで、私は全てを悟り、調和のうちに人生を終えたということにはならなかった。この本がとても素敵なことを話してくれているのはわかったが、日々の暮らしでどうしていいのかはさっぱりわからなかった。それで私は以前のように些細なことで怒りながらそれでもタオイズムの本やくまのプーさんをはじめとする児童文学を読み漁っていた。

『タオのプーさん』は不思議な本だ。この本の監訳者の吉福伸逸さんはその後出会うことになる私の人生の方向を完全に変えてくれた人の師匠のような存在だし、著者のベンジャミン・ホフさんがやっているという太極拳は私も数年後習い始め、今でも毎朝練習している。ちなみにホフさんの仕事は植木屋のようだが、この本を読んで15年以上経って植木屋で働いてみたのもこのときの憧れからかもしれない。

こうして絶望の闇の中に一条の光が差し込み、私は少しづつ回復していった。近所の漢方薬局に通うようになり、漢方薬を調合してもらって、ステロイドをやめた。離脱症状はかなりひどくて毎晩血だらけになったが、薬剤師の支えで乗り切れた。祖母に紹介してもらったカイロプラクティックにも通い始め、姿勢もだいぶ良くなった。このカイロプラクティックの先生には太極拳を始めたらと言われ、今はなき日本気功協会で太極拳の師に出会うことになるのだが、当時の私には太極拳がわからず、2回行ったきりやめてしまった。2回目のとき、手持ちのお金が2000円しかなく、体験料のうち500円が払えなかったので、後日横浜そごうで開かれていたカルチャーセンターの先生の教室に行こうとしたのだが、あまりに場違いな雰囲気に尻込みしてしまい、500円は借りたままになっていた。

数少ない友達の助けもあり、なんとか大学は卒業したが、就職活動はとてもできなかった。四年次の終わり、卒業式も間近の頃に学生課に求人票を眺めに行ったが、コーンスターチの会社の募集しかなかったのをよく覚えている。どんな企業であれ、自分がスーツを着て、会社で働いている姿というのは想像できなかったし、自分に社会に出て仕事をする力があるとは全く思えなかった。

こうして私はどこへも行かず、家にいて図書館で本を読むことを選んだ。実家にはいづらくて、祖母の家にいることも多かった。そんな日々にアンドルー・ワイル博士の『癒す心、治る力』に出会った。この本は『タオのプーさん』を読んで感じた疑問、でも毎日大変なんですけど、どうしたらいいんですかという疑問に食事、運動、瞑想などの具体的な内容で答えてくれていた。そしてその根底には『タオのプーさん』と同じ争わない心があった。ワイル博士を経て、ラム・ダス、マハラジ、グルジェフとそんなことが現実にあるとは数年前までの自分だったら信じられないようなことが書いてある本に巡り合うことができた。

しかし、全ては本の中の出来事であった。現実世界に立ち返ると私は変わらず、無力であった。この頃、アトピーはプロトピックという薬を使ったことがあるからという理由で治療自体は断られた漢方医院で教えてもらった砂糖と肉などの油っぽいものを一切断つという極端な食事法により、一応の落ち着きを見せていた。だが、パニック障害のようなものは治らず、電車に一人で乗るのは恐怖であった。

そんな夏のある日インターネットでグルジェフのことを調べていた私は彼の孫弟子がイギリスから日本に来てワークショップを開くという記事を見つけた。詳しくは覚えていないが、参加費は高くなく、誰でも参加できるものだった。会場は秋葉原。東京まで一人で電車に乗るのは無理だったので、迷ったが、ついに当日に申し込み、そのまま慌てて母に秋葉原までついてきてほしいと頼み、電車に乗った。2008年7月。暑い日だった。大学を卒業して3年半が経っていた。

ワークショップの主催者の方が迎えに来てくれていたが、後で影から見ていた母に聞いた話によると、彼は駅で誰かを待っている風の人に誰彼構わず話しかけていたらしい。一応、私の外見的特徴をメールで送ったはずなのだが。ともあれ、やっと私が見つけ出され、駅なかのカフェで面談してから会場へ行くということになった。その前に面談を受けていたのは小太りのおじさんであった。数分待つとおじさんの面談は終わり、私が呼ばれた。彼との面談で、卒業して半年ですと嘘をついたのは覚えている。半年か、そろそろまずいなという彼の反応も。いや実はね...

この私の前に面談していたおじさんこそ、その後の私の人生をすっかり変えてしまうことになる教えを授けてくれた人であり、私が初めて出会った本の中にしかいないと思っていたような人物であった。それは私がグルジェフやマハラジの本を読んで長らく待望していた師と呼べる人だった。

帰りの電車の方向が一緒だったので、色々と話してもらい、後日もう一度ワークショップで会い、習い事でもなんでもいいからまずは外に出る練習をして仕事を探すのはそれからにしてごらん。梯子を一段づづ登るのと同じでいきなり大学教授になりたいと言ってもそれは無理な話だよと言われた私はとてもゆっくりなペースながら、習い事を探し始めた。

いくつか試したのち、ふと思い出して、4年前に2回行き、500円借りたままになっている太極拳の先生に連絡を取ってみた。実は習い事を探し始めたときにもメールを送ったのだが、そのときは返信がなかった。今回はすぐ返信が来て体験は許可された。水道橋にある教室に入った瞬間、ここが探していた場所だとわかった。先生も前回とは比べ物にならない熱心さで教えてくれた。

こうして私の人生は二人の師によって彩られていった。まだ小さな一歩を踏み出したばかり、でも誰かが言っていたように師に出会うことができたなら、人生半分はクリアしたようなものなのだ。

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