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ふんどし 実際どうなの?5年以上経験者が語る

 ふんどしは通気性が良い上にゴムの締め付けがなくて健康にも良さそうだ。とは思ったものの実際の履き心地ってどうなのよ、と購入に二の足を踏んでいる人も多いのではないだろうか。私もふんどしに興味はあったが、種類は色々あるしなかなか買ってみたい店も見つからず、結局妻に作ってもらうまでは履かずじまいだった。そこで、この記事では初めてふんどしを履いてから早5年以上、もはやふんどし以外は履かなくなってしまった私がふんどし生活の実際について語ってみようと思う。

 まず私は男性なので女性にはあまり役に立たない記述も多くなるかもしれないことをお断りしておこう。
さて、まずふんどしを履いたことがない人が気になるのはふんどしには “越中” だの “もっこ” だの色々あるが実際何が違うの、ということだろう。また、普段ズボンを上から履いたときに不便はないのか、トイレではどうしているのか、といったことも気になるだろう。それではこれからそれぞれのふんどしについて履き方、履き心地、トイレでの作法を見ていこう。

※2025年1月3日現在、私が履いたことがあるのは “もっこ” と “越中” なので六尺と五尺については実際に履く日が来るまで記述はお預けだ。

もっこふんどし

 最もブリーフに似ているふんどし。私が初めて作ってもらったのもこの種類だし、今もふんどし6枚のうち5枚はもっこだ。ふんどし初心者が最も親しみやすいふんどしと言えよう。履き方は簡単で紐が輪になっている方に片足を通し、布が股間の中心に来るようにして反対側のウエストで紐を結ぶだけだ。布に前後はないから左右どちらで紐を結んでも良い。ほとんどブリーフのようなものなのでズボンを履いても全く気にならない。ハーフパンツもいける。初めはブリーフのようにかっちり包まれていないので、不安な感じや寒いのではという危惧もあったが、すぐ慣れる。トイレにおいても小のときは簡単にずらせるし、大のときには紐を解いて脱げば良いだけだ。履き直すのも全く手間ではない。

越中ふんどし

 ふんどしと言われて思い浮かぶイメージの一つが越中だろう。前垂れがある理由はわからないが、なんとなくふんどしらしい風情を醸し出しているし、股間が守られている安心感があるという人もいる。これも履き方は簡単で、前垂れをお尻側にしておへそあたりで紐を結び、前垂れを股間を通して上に持ってきておへその前で結んだ紐に通すだけだ。あとは前垂れが股間の前に来るように位置や締め加減を調整すれば良い。履き心地としては前垂れがあるのでズボンを履くと多少もたつくが、気になるほどではないと思う。前垂れの長さによってはハーフパンツは微妙だ。そういえば、私のふんどしあるあるは前垂れではなく、紐がズボンから出てしまうことだ。どうでも良いが。トイレでは小のときは案外簡単にずらせる。大のときは紐を解くのではなく前垂れだけ抜き取って肩にかけて用を足せば良い。これまた慣れれば、自然にできる。

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着心地のいい作務衣

作務衣を着たいとずっと前から思っていた。『三十光年の星たち』という小説の中で主人公の友人が天然染料で染めた絹の作務衣を寝巻きにしてアトピーが治ったという話を読んで、それはいいと思ったのが始まりだ。そしてまさにその本の中に出てくる京都の染物屋のモデルになったお店に藍染の作務衣を注文したのは本を読んでから数年後のことだった。残念ながら絹製を頼むことはできなかったが、身頃は藍染、おくみは榛で染めたという凝ったものだった。だいぶ大きかったし、布も思ったより固かったが、せっかくだからとしばらくこれを着て寝ていた。アトピーが治ったかといえば、大して変わらなかったという印象だ。二着目は坐禅の接心という泊まり込みの坐禅会に通うとき、作務衣が必要になった。ネットで探したが、なかなか気に入ったものには出会えなかった。どうにか見つけたものは袖口にゴムが付いていてあまり好きではなかったが、座禅の合間に行う作務には都合が良かった。

そして三着目。それまで着ていたパジャマが破れたのを機に妻が作務衣を作ってくれた。布も私に選ばせてくれた。生地は綿だが、絹のように柔らかい。色は高貴な紫だ。外で着るには柔らかすぎるし、色も恥ずかしいが、寝る時には最適だ。袖口にもゴムはないし、揃いのズボンもある。12月末現在、冬でも寒くない。朝起きときにはだけていることも滅多にない。夏以外は通年着られると思う。布を変えれば外出着にもなるだろう。和服は肩が楽とよく言われる。正直なところ私にはよくわからない。しかし、またパジャマに戻すかと言われればそれはないだろう。なんとも表現しにくい心地よさがあるのだ。

今回、妻は作務衣を作って販売することを決めた。このブログは元々ハーブを育てて、ハーブティーなどを売ろうとして妻が苦心して作ったものだ。いつの間にか私に乗っ取られて、雑多な記事が並べられてしまったが、この度ついに当初の目的を果たすことができた。きっとブログも喜んでいることだろう。販売の詳細については後日妻から新たな投稿があると思う。楽しみに待っていてほしい。

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簡単!美味しい!初心者でもできる自家製あんこ

あんこを初めて作る前まで自分で作るのは難しそうと感じていた。実際、人が作って失敗するのを見たり、上手にできなかったという話を聞いたりもした。けれど、実際に作ってみたら思いの外簡単にあんこはできた。そして美味しかった。

世間には様々なあんこのレシピがあることを知った。あんこの作り方だけで一冊の本が出来上がっているのも見た。確かにそれらのレシピ通りに作れば美味しくてつやつやのあんこが炊けるだろう。しかし…如何せん私には面倒だった。渋抜きを何度もしたり、糖蜜を作ったり…同じように感じて結局手作りを諦め、スーパーで袋詰めのあんこを買っている人も多いのではないだろうか。私もそうだった。それならいっそ多少適当でも自分で作ってみて出来立ての美味しさを味わってみた方がいいのではないだろうか。このレシピがあんこ初心者の背中を押す助けになれば幸いである。

まずは小豆を鍋に優しく入れて水でさっと洗う。小豆は250gか300gのものが多いようだ。あんこはうちでは琺瑯鍋で炊いている。水は洗うときから浄水器を通した水、または気に入った水を使いたいものだ。

水を切ったらまずは一度だけあく抜きをする。最初はあく抜きせずに炊いていたが、胸焼けしたことがあったので一度だけあく抜きしたら、とても上品な味になり、それからは一度だけあく抜きするようになった。かぶるくらいより多めの水を入れて中火にかける。煮立ったらしばらくそのままにして汁に色がついたら火から下ろし小豆を笊にあける。水気を切ったらそのまま洗った鍋に戻して今度はかぶるくらいの水を入れてまた火にかける。煮立ったらごく弱火にする。

ここからはひたすら水が減って小豆が顔を出したらまた少し足す、の繰り返しだ。妻のじいちゃん(若い頃菓子職人だった)の口伝によると「豆はぶつぶつ煮る」ものらしい。お湯の中で踊らせてはいけない。ということはあまり水を多く足してはいけないのであって、豆が顔を出さないくらいと言ったらいいのだろうか。また火もごく弱くなくてはならないということだ。あんこは本来、ずっと近くで見守っているものなのだろう。しかし、私が炊くときは仕事をしながらである。なんとなく耳だけは台所の音に集中させておいて、ぶつぶついう音が大きくなってきたら走って様子を見に行く。まあこんな適当な炊き方でも結構美味しく仕上がるものだ。

1時間くらいこの工程を繰り返すとそろそろいいかなという感じになってくる。確かめ方は小豆をつまんで指で潰せるか、木べらで混ぜたとき固く当たるものがないか、食べてみて美味しいか、そんなところだ。良さそうなら、砂糖を計る。うちでは甜菜糖を使っている。量は小豆の90%くらいにしているが、これは好みだろう。計った砂糖を三回くらに分けて入れていく。妻は一回で入れてしまう。砂糖が溶け切ったら火を強め、木べらでかき混ぜる。砂糖を入れてからは焦げやすくなるので鍋底からしっかりとかき混ぜる。さらに熱い汁が飛び跳ねるので、軍手をするなり火傷に気をつけるのはもちろんのこと、服や近くに置いてあるものが汚れないように注意する。このあんこの作り方で一番難しいのがこの工程だろう。火にかけ過ぎるとパサパサした仕上がりになってしまう。目安としては木べらで底からかき混ぜたとき鍋底が見えること、かき混ぜていてあんこが木べらにまとわりつくような重みを感じることだ。私は以前よくジャムを煮ていたので、この感覚を掴むのは早かった。

さて、これでもう出来上がりである。火から下ろして、余熱で焦げないようしばらくかき混ぜる。好みで塩ひとつまみを加えても良い。どうだろうか。つやつやの美味しそうな粒あんが出来上がっただろうか。すり鉢で搗いた餅(以前のブログ記事)と一緒に食べたなら、それは至福のひと時だ。

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汲み取りトイレからの蚊には油!

この島に移住して驚いたことはトイレが汲み取りだったことだ。横浜の外れで生まれ育った都会っ子は愛媛で4年農業を経験してだいぶ田舎暮らしにも慣れたつもりになっていたが、汲み取りのトイレは初めてだった。一人旅で結構なボロ宿にも泊まったが、部屋に鍵はなくてもトイレは水洗だった。自然農の講習の時泊まった宿舎と坐禅の接心の時の宿舎は水洗ではなかったが、片方はおそらく伝統的なぼっとん便所、もう一方はおがくずを使ったトイレだった。汲み取りのトイレはどちらとも違った。トイレの蓋を開けると真っ黒な口が開いていて、臭気を伴った風が吹き上がってきた。僕にはここで用を足す勇気はなかった。

妻も田んぼに囲まれた家で育ったとはいえ、その育ちは都会っ子であった。このトイレは精神的にかなりキツかったと思う。便秘になるのも無理はない。そして悪いことには夏になるとこのトイレからは大量の蚊が渦を巻いて湧き上がってきた。妻は家にいると便秘になり、外に行くと快調になるという日々が続いた。トイレのためにモーニングに行くというなんだか本末転倒虫なこともよくしていた。

もちろん、僕も指を咥えて見ていたわけではない。だが、重曹も油も使いかけのハーブのマッサージオイルもそしてヤケクソで入れたレモングラスの葉っぱもなんの役にも立たなかった。少なくとも良くなったかと思った数日後には蚊が舞い戻ってきた。朝顔の葉も効くとネットで見たが、引越してきた年に咲き誇っていた朝顔は棚を作り替えた翌年からはほとんど咲かなくなってしまった。夏のトイレは窓を閉め切った中で蚊取り線香が二つ焚かれ、煙が立ち込めていた。

万事休す。もう殺虫剤を投与するしかない。そんな風に覚悟を決めると人間には救いの手が差し伸べられるらしい。なぜか僕たちは汲み取り業者が糞尿を汲み取る蓋の方から油を入れればボウフラを抹殺することができるのではないかと思いついた。

翌日、スーパーに行って、一番安くて一番たくさん入っている食用油を買った。1.5リットルである。汲み取りの蓋を開けるのはあまり気が進まなかったが、前に隙間を塞ぐときにも何回か開けていたし、そのとき周りを掃除したからそこまで気持ち悪くはなかった。ヤケクソで投げ込んだレモングラスは僕の予想に反して、ほとんど原型を保っており、このままでは汲み取りのおじさんにどやされること確実なので、木の枝で掬い取った。そして油を満遍なく流し込んだ。

翌朝、まだ蚊は出てきたが、勢いはなくなった気がした。1匹1匹手で殺していった。翌日、蚊はさらに減った。そして3日目、ついに蚊の姿をトイレで見かけることはなくなった。同時に家の中や風呂にいる蚊もだいぶ減った。ボウフラがいなくなって水が汚れるせいか、小蝿は少し増えたが、それも問題にならない程度であった。何度か蚊が出てきて妻は油を追加投入するように迫ったが、僕はもう少し辛抱強く様子を見るように勧めた。現在のところ一月あまり、蚊は大量発生していない。

ということで、結論として汲み取りトイレで蚊が大量発生して困ったら、食用油を汲み取りの蓋のある外から大量投入することがおすすめである。便器から油を入れても便槽の中に行き渡らず効果は薄い。必ず外から蓋を外してやることが肝心である。あとは外から蚊が入れるような穴は塞がなくてはならない。

殺虫剤の使用はなんとか回避することができたが、この食用油を撒く手法の環境負荷が低いかは疑問である。だから自己満足に過ぎないかもしれない。しかし、僕は満足した。

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二度と会うことはない

大学は出たものの就職するでもなく、もう一度学校に行って学び直すでもなく、これから先どうして生きていって良いか皆目見当もつかなかった僕は父の圧力に耐え兼ね、家に帰らず、なし崩しに祖母の家に住むことになった。祖母も本来は働きもせず、ぶらぶらしている孫を受け入れるような穏やかな人ではなかったはずだが、長い一人暮らしにも飽き、誰でも良いから一緒に暮らしてほしかったのかもしれない。何も言われることなく、奇妙な二人暮らしは始まった。

その頃の僕は毎朝、夜明けしばらくして目覚めると海へ散歩に行った。逗子は日の出を海から見ることはできないので、そこまで早起きする気にはならなかった。家に帰って朝ごはんを食べると、じゃこ炒め、梅干し、鰹節のおにぎりとお茶を入れた水筒を持って鎌倉図書館に出かけた。特に何を集中して学ぶではなく、その時興味のある本を読んで、3時くらいに退館していたと思う。家に着いて一休みしたら、また海へ出かけ、夕陽を眺めならがら歩くという趣味のない定年後のおじさんみたいな暮らしをしていた。

時々、海に行く道を入り口近くで、右に曲がって披露山という低い山に登ることもあった。15分くらいで登れる山だが、木が生い茂っていて、上まで登ると海が見えるので、気に入っていた。

その日もそんな風に披露山を登っていると、髪を短く刈り込んだおじさんに話しかけられた。おじさんは東京から仕事の打ち合わせのために横須賀に来て、帰りに逗子海岸で酒を飲みながら眠ってしまったらしい。起きてみると財布がないことに気づき、このままでは家に帰れないと、山に登ってきたらしい。こう書いてみて「?」と思った。何か記憶違いだろうか。しかし、おじさんと披露山で出会ったことは間違いなく、財布を盗まれた話も確かだから、間違いないだろう。しかし、なぜ、財布をなくした人間が山に登らなくてはならないのか。まさか歩いて王子まで帰ろうとしたというのか。

話をおじさんに戻そう。おじさんは団地などの外壁塗装をしている人で、その仕事の関係で横須賀に来たらしい。大手企業の下請けだったおじさんは企業から来ている社員の悪口を言ったあと僕の方を見て「あんたのような人が来てくれたらいいんだがな」と言った。なぜかおじさんは僕のことをいたく気に入ってくれて、「あんたのような頭の良い人が上に立つといいんだよ」そして僕が祖母の家にいることを知るとそれは父方かと聞いてきた。母方だと答えると「外孫をそれだけ大事にするならあんたのことをよほどおじいさんは可愛がっていたんだな」と言った。記憶が曖昧である。僕は初対面の人に大学のことや祖父のことを話したのだろうか。それともおじさんは何かを見て話していたのだろうか。

そういえば、今思えば不思議なのはおじさんは横須賀での打ち合わせの時もらった数万円も取られてしまった、カミさんに怒られると言っていたが、そんな風に打ち合わせの時にお金を渡したりするものだろうか。

僕はしかし何も疑問に思わずおじさんに同情し、帰るためのお金を渡そうとしていた。その頃の僕は散歩の途中歩けなくなり、家に帰れなくなるのではないかという妄想があり、いつも幾らかのお金を持ち歩いていた。おじさんに5千円札を渡すと、着けていた腕時計を外して僕にくれた。スウォッチだった。これは誕生日に息子にもらったものだから、バレたら怒られるなと言って笑った。僕は悪くなって有り金全部渡すつもりでもう2千円おじさんに手渡した。おじさんは嬉しそうにして、これだけあれば飲み直しに行けるというようなことを言ってまた笑った。おじさんは住所と名前をメモ用紙に書いて渡してくれた。住所は上にも書いたように北区王子だった。逗子から電車で1時間と少し。2千円あればお釣りの来る距離である。

お人好しの僕は変わらず「会いに行きますね。この時計、返しに行きます」と言った。するとおじさんは急に真顔になって「いや、もう二度と会うことはないだろう」と言った。その頃の僕は誰でももう二度と会わないことがほぼ確定の人でもまた会いましょうと言っていたし、実際そのうち会えるのではないかと思っていた。しかし、その後歳を重ねて分かったことはほとんどの人は二度と会わないということだ。毎日職場で顔を合わせていた人たちも一度やめてしまえば、いつでも会えるからと言っていても二度と会わない。毎年の年賀状で今年こそは会いましょうと言い合っていた人とも二度と会わない。君とはずっと友達だと言った人とも二度と会わないし、好きで仕方なかった人とも二度と会わない。

おじさんはそんな真実をまだまだ子供だった僕にさりげなく教えてくれた。おじさんは踵を返すと笑いながら手を振って山を下りていった。

後日、僕は懲りずに王子駅で降りておじさんの家を探しに行った。おじさんに教えてもらった住所は団地で、部屋番号は書いてなかったからポストを調べて名前を見つけなくてはならなかった。少し迷った後、僕は探すことを諦めて、おじさんの教えを受け入れることにした。

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鶏を絞めに行く

田舎暮らしをしているうちにやりたいことの一つに鶏と猪を絞めるというのがあった。猪の解体は以前何回もやったが、トドメを刺すのはいつも猟師のおじさんたちだった。僕は彼らが時に鉄砲で、時にナイフで猪を殺すのを遠目に見ていた。猪は時によるとかなり暴れた。これではくくり罠という足をかけるだけの罠では外れて、猪に襲われるのも然もありなんだなと感じた。

猪や鶏をこれからも食べていく以上一度くらいは自分の手で殺さなくてはと思っていた。奇妙な義務感ではある。そうしたところで何の意味があると言われると困る。いや、でも食糧難の時に自分で捌けなかったら困るじゃないかという言い訳。食糧難の時?そんな時はもう生きている鶏も手に入らないかもしれない。詰まるところ、なんやかや言って殺してみたかっただけなのかもしれない。昔、そんなことを言っていた少年がいたなと思い出しながら。

翌日、夜明け少し前に目が覚めた。とはいえ、2月のことだ。もうそんなに早い時間ではない。鶏小屋はうちから500メートルくらい坂を上ったところにある。静かな鶏たちで滅多にうちまで鳴き声が聞こえることはないのだが、この日の朝は悲しげな鳴き声が聞こえた。

約束の時間に歩いて行くとまだ誰もいなかった。軽トラは止まっていたが、誰もいない。しばらくすると鶏たちの主人がフランスからのウーファーを助手席に乗せてやってきた。止まっていた軽トラの主は少し離れた集落で農業をしている人だった。彼と会うのは三度目くらいである。挨拶もそこそこに早速鶏の主人はフランス人と軽トラの主に川淵で火をつけるように命じた。その間に僕は鶏主人を手伝って屠殺場の設置を進めた。今日屠殺される20羽の鶏はすでに小さなケースの中に詰め込まれていた。朝になってから捕まえようとすると大混乱になるので前夜のうちに捕まえておくのだそうだ。朝の鳴き声がどこか悲しげだったのはあながち気のせいでもなかったようだ。

二人は火をつけるのに案外苦戦していた。軽トラの主は田舎暮らしが長いが、そんなに田舎暮らしスキルが得意そうではなかった。つまりは都会っ子である。そんなところが僕に親近感を抱かせ、珍しく彼には前から話しかけていた。鶏主人が川に下りて行って、ブロックの位置を変えたり、薪を足したりしているとうまく火が燃え出した。主人は二人に上に上がるように言った。どうやら首絞めの時が来たらしい。

昨夜、妻にもしかしたら、いざ殺すという時になって可哀想になって、「飼います!」と言って家に連れ帰ってしまうかもしれないと言ったら、いいんじゃないと言って笑ってくれた。けれど、目の前に見た時、可哀想という感情はあまり浮かばなかった。昔、檻に入っているうりぼうは哀れであったが、この鶏たちはこれから起こることを知っていて、諦めている、あるいは受け入れているように見えた。

鶏主人が手本を見せてくれる。左手で足首を持ち、右手で顎の下を押さえて捻りながら伸ばす。延髄を抜くようにするのがコツのようだ。軽い動きで鶏は息絶えた。あとは先ほど準備した鉄棒に足を縛り付けて20分くらい逆さ吊りにするだけだ。何度もいろいろなやり方を試して辿り着いたのがこの形ということだ。生きたまま首を切ると首なしの鶏がそこらじゅうに血を振り撒きながら走り回って、後で穴熊や狸が血の匂いに誘われてやってくるという。

主人は我々にもやるように勧めた。フランス人は顔の前で手を振りながら数歩後ずさった。軽トラの主は何回目からしく「えーと」と思い出しながら、鶏を取り出し、捻り始めた。初めはうまくいかなかったが、少しのアドバイスで思い出したようで見事に息の根を止めていた。次は僕の番である。ケースから取り出すとさして暴れることもなく、屠殺の体勢に入ることができた。しかし、二人のように捻りながら伸ばしているつもりがうまくいかない。数度チャレンジしてうまくいかなかったのを鶏の主人が見兼ねて「苦しんでるから」と言って引き取り、一瞬であの世に送ってくれた。鉄棒に足を縛り付けながら、「できる」とアファメーションしてもできないな、やはり、と思っていた。二人が絞める様子を見ているとあっという間にその箱の鶏は残り一羽になってしまった。もう一箱あるから、その箱に入っている鶏で再挑戦だ、と思っていると軽トラの主がやらないんですか、と声をかけてきた。いや、僕がやっても苦しむからとゴニョゴニョしているとせっかくだからやってみてはと言ってくれた。そこで彼に手取り足取り教えてもらいながらもう一度やってみた。さっきは顎にかけた手の捻りが甘かったようだ。そして伸ばしようも足りなかった。思い切り伸ばすと鶏の首の中で何かがすとんと抜けたような感じがして、ほんの数回羽ばたきすると鶏はすぐにぐったりした。静かな時間だった。来る前に思い描いていたような血生臭く、残酷で暴力的なものではなかった。どちらかというとその静けさは氣空術で集中している時のような感じを思い出させた。

みんなで協力して川べりに下ろすと、鶏の主人は火の上にかけていた大鍋のお湯の温度を確かめ、もう少しと言って薪をつがせた。そして、たぶん僕たちが放心状態のように見えたのだろう、こんなことを言った。

「こうやって、生きている鶏を殺すことは残酷に見えるかもしれない。けれど、一般的な採卵養鶏だったら、一度に機械で殺して、そのまま捨ててしまうんだ」

ベジタリアンの妻に言わせれば、どちらも殺すことに変わりはないと言われるだろう。けれど、僕からすれば、ゴミのように殺されるのと一羽一羽、向き合って殺して行くのとでは大きな違いがあると思う。どんな行為もその時の心持ちで全く違ったものになってしまう。悲惨な虐殺にすることもできれば、思わぬ静かな時間にすることもできる。以前に見た映画や本で読んだときに感じたような悲惨な感じがしなかったのは、少なからず鶏たちが死ぬことを受け入れているように見えたからだと思う。山の中の平飼い鶏舎は、庭先で飼われていた昔の鶏ほどのんびりはしていないかもしれないが、時々敷地の外に出てきてしまうほど自由な鶏の様子は、一生をケージの中で動くこともできずに過ごす鶏たちとは比べものにならないくらい幸せに生きているように見えた。鶏の主人は朝晩欠かさず様子を見に行き、草刈りの草や育てたお米の糠、スーパーでもらったくず野菜をあげていた。一部の鶏は知り合いにもらわれて幸せそうに長生きしていた。けれど、今日殺された子たちもどこかで主人の世話に感謝してここで命を終えることを受け入れているように見えた。

一旦死んでしまうとそれはもう鶏肉にしか見えなくなった。さっきまで青ざめていたフランスのウーファーもすっかり笑顔になって、鶏を両手に吊し持って収穫気分を味わっている。ぼちぼち世間話をしながら作業は続いていく。鶏を熱湯につけて羽が簡単に毟れるのを確かめたら湯から引き上げ、紙の上で羽を毟り取る。川の水で洗いながら残った羽を取って、川の水の入っている桶につけておく。僕たちがこの作業に勤しんでいる間、主人は粛々と二箱目の鶏たちの屠殺を進めていた。ああ、あの時、軽トラの主にやってみるように促されなかったら結局できないまま終わって悔いが残ったなと思う。

川に置いたまな板に鶏を置いて出刃包丁で頭を切り落とすのは首を捻るのと比べるとなんでもないことだった。血が残ると動物たちがやってくるので川の中で切り落とすのだ。と言ってもとても浅い、足首まであるかないかの流れである。長靴に穴が開いてなければなんてことない、そう僕のように。さっき、鶏を川で洗う時にもう少し深いところに入ったせいで、僕の靴下は足首までぐしょ濡れだった。体が冷えてくる。長靴には穴が開いてないに越したことはない。

川の中に設置した折り畳みテーブルの上で男四人の料理教室が始まる。鶏の主人は手際よく解体を進めていく。手際が良すぎて参考にならない。ここでも僕は軽トラの主に教えてもらいながら少しずつ進めていった。なかなか切れる場所がわからなくて、骨をナイフでゴリゴリやってるとそうすると切れ味が落ちてしまいますよと指摘される。ふと斜め前を見るとフランス人はサクサクと解体を進めている。聞けばおばあさんが七面鳥を捌くのを子供の頃手伝ったことがあるという。それにしても一回か二回というから器用なんだろう。どうにか一羽目を終え、もう一羽捌き終えると、今度は違うやり方を教えてもらった。頭を落としたら、肛門の上に切れ目を入れて、そこに手を突っ込み内臓を腹膜ごと引き抜くのだ。これはダイナミックだが、あとは綺麗に中の空洞を洗って、ジップロックに入れて冷凍庫に入れておけば保存が効くらしい。こうして、解体と片付けを終え、解散となった。帰り際にすぐ食べる用の部位ごとに切り分けたもの一羽と内臓を取り出したものを二羽もらった。これが冷凍庫に入っていると嫌がられるだろうなとチラと脳裏をかすめたがせっかくなのでもらっておく。

家に帰るともうお昼だった。妻は外で作業していて、思いの外機嫌が良かった。僕は玄関先に七輪を置き、炭に火をつけて早速内臓からいただくことにした。猪の解体をするまで、ホルモンはあまり食べなかったが、解体したての内臓はとても美味しかった。まして、一般の養豚場の豚と違い、餌も自然のものだ。鶏の内臓もそれに違わず、美味しかった。特に砂肝はどんなものかも知らなかったが、特有の歯応えと風味にすっかり虜になってしまった。キンカンという卵の殻ができる前のものも残酷な感じもしたが、一個一個大切に拾ってきて良かったと感じる味だった。まあ、言うなれば小さい白身なしの卵のようなものだ。残りの肉は翌日スープにした。こちらも滋味深かった。

自分で絞めた鶏は特別な味がしただろうか。ただ、その体の温もりと静かな時間だけが、僕の心に残っていた。

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ベジタリアン・コロッケの美味しい作り方

我が家では昼食がその日のメインの食事になる。昼食を作ってくれるのは大概妻である。いっときはそれなりに交代で作っていたような気もするが、いつの間にかほぼ作ってもらうようになってしまった。言い訳をさせてもらえば、ノンベジがベジ料理を作るのは難しいし、料理レベルにも開きがあるのだから仕方ない。そんな中、申し訳なく思い、「そろそろ、何か作りましょうか」というとリクエストされるのは9割方コロッケである。

これまでなんとか美味しいベジ料理を作ろうと試みてきた。雑穀を使った料理は美味しいが、ご飯と一緒に食べると主食が二つあるような感じがしてどうも定着しなかった。そのほかにも色々チャレンジしたが、私がベジで作っても無理のない料理は今のところコロッケと揚げ出し豆腐だけのようである。

今回は何度も作って気づいた美味しいベジ・コロの作り方をご紹介しよう。

① ジャガイモはよく洗って芽を取り、皮ごと一口大に切って20cmの雪平鍋いっぱいになるくらいにする。鍋に一度水を入れ底からかき混ぜて汚れを落とし、今度はひたひたくらいに水を入れて火にかける。

②煮立ったら火を弱め、最初に浮いてきた灰汁はスプーンで取り除く。あとは水がなくなって柔らかくなるまで茹でるだけだ。この間に玉ねぎコロッケなら玉ねぎを刻んでフライパンで炒める。カレーの時ほど炒める必要はないが、透き通って味見して甘くて美味しいと感じるまで炒めるのが肝心だ。ローズマリーコロッケならローズマリーを庭から摘んできて葉を茎から外して包丁を両手で使って細かく刻むだけなので残りの時間を読書やパソコン作業に使える。

③コロッケの美味しさを決める一番のポイントはジャガイモの茹で加減だと思う。だから水の量と火加減といつ芋を潰し始めて、どこで火を止めるかには神経を使う。私は水が減ってシュワシュワしてきたら芋を潰し始める。そして、玉ねぎコロッケの時は水を飛ばし、ローズマリーコロッケの時は少ししっとりしているくらいで火を止める。火から下ろしたら、塩と玉ねぎ、もしくはローズマリーを加える。ローズマリーコロッケの時は刻んだ胡桃を加えてもいい。うちで使う鬼胡桃は刻むまでもなく殻から取り出した時点で粉々なので都合が良い。塩加減はこの芋を食べるとしたらこれくらいの塩で食べるだろうというくらいの量を振るといいのだそうだ。私もやっとコロッケの塩加減には慣れてきた。木べらで底からよくかき混ぜて冷めるまで待つ。

④手で触れるくらいに冷めたら成形に入る。なるべくあったかいうちに成形した方が美味しくなる。私のコロッケの生地はかなり柔らかいので丸めるというより、手のひらにすっぽり入るくらいの量を両手の間で優しく数回転がすだけだ。そしてまず皿の中で小麦粉につけて手の上でポンポンし、終わったらその皿に水を入れてかき混ぜてバッター液にする。バッター液につける手とパン粉の中でコロッケを転がす手は別にしておく。バッター液は卵でやるのが普通だろう。うちも初めはそうしていたが、何かの本で小麦粉を水で溶かすことでもできることを知ってからはもっぱらこのやり方になった。なのでヴィーガン・コロッケと言えよう。また、グルテンフリーならぬグルへり(グルテン減りー)をやっていた時は(まあ今もやってるのだけど)小麦粉を米粉に、パン粉も玄米パン粉に変えてみたりしたが、やはり重い気がする。小麦粉の方がサクッと揚がる。パン粉は粉、塩、イーストくらいのシンプルな原料のものがおすすめである。

⑤フライパンに多めに油を入れる。今も難しいのは油を贅沢に使うことである。結局使うのだからチビチビ足すより最初からたっぷり入れた方が美味しく揚がるに違いないのだが、どうしても控えめになってしまう。そういう感じなので、中弱火くらいで6面をゆっくり揚げ焼きしていく。揚がったら栗原はるみさんの白い網付きトレーに置いていく。このお皿を買ったおかげで我が家の揚げ物は格段に美味しくなった。ステンレスのトレーと違い、そのまま食卓に並べられるのも重宝する。さてさてこれで出来上がりである。ほかに味噌汁やサラダ、切り干し大根の煮物のような副菜を一つ作って2時間、というのが私の目安である。

ベジタリアン・コロッケの作り方いかがだっただろうか。ジャガイモを全てサツマイモに変えるのは私はあまりお勧めしないが、2〜3割サツマイモを入れてみると甘くなって美味しい。また、以前妻がよく作ってくれたジャガイモとバターだけのコロッケも美味しかった。こちらはバターをビビるくらい入れなくてはならない。私は入れられなかったな・・・

ベジタリアン料理というとお肉料理と比べてどうしても物足りないものと思われがちだが、料理する人の腕と素材次第ではそんなことは全くない。そしてコロッケは腕、素材もそこまで問われないと思う。肉を食べる私からしてもコロッケは肉なしの方が美味しい料理の一つである。というのもベジタリアンで名前のある料理を作ろうとすると大豆ミートを使ったもどき料理になるか、ボリュームのなさを補おうとして、ナッツや雑穀を入れたりするものが多いが、コロッケは単純に肉を抜くだけで、素材の味が楽しめてボリュームも満点の料理に仕上がるからだ。

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13歳の時のような友達は二度とできない

このタイトルは「スタンドバイミー」のラストシーン、パソコンのスクリーンに映し出される文章をもじったものだ。本来は12歳の時であり、実際彼と初めて会ったのは12歳の時だったのだが、自分の感覚としては13歳から14歳というのが最も鮮烈な時として印象に残っている。

彼、I君としておこう、に初めて出会ったのは中学校に入学したとき。けれど、どんな風にして話すようになったのかは全く覚えていない。中学生男子の関係なんてそんなものだろう。いつの間にか仲良くなって、いつも自転車に乗って一緒に出かけるようになる。I君も私も大人しいというか一言で言うとオタクだった。私は髪型や行動が目立つので不良グループに目をつけられやすかったが、I君にはそんなことはなかったように思う。彼は長身というほどではないが、すらっとしていてサラサラの黒髪で、歳の割に落ち着いていた。今思い出せば、時々老人のように見えることもあった。多分、彼にはその頃、本当に子供であった私たちよりだいぶ多くのものが見えていたのだろう。

彼のお母さんは白血病を患っていて、入院していて家にいないことも多かった。そんな親のいない家は悪ガキどもの溜まり場になりそうなものだが、記憶にあるのは大概彼と二人で薄暗い部屋でロールパンを齧りながら、ゲームをしたり、漫画を読んだりした情景だ。そこに他の友達の姿はない。強いて言えば、彼の二つ下の妹が黙って後ろからゲームのスクリーンを眺めていることがあったくらいだ。彼女も線の細い美人になりそうな子であったが、私はほとんど言葉を交わすこともなかった。6時になると彼のお父さんが帰ってきて「もう帰りなさい」と有無を言わさぬ調子で告げて、私は自転車に乗って夕闇の中、家路を辿るのであった。

私も彼も父親との関係に問題を抱えていたが、そんなことを話し合った記憶はほとんどない。彼の叔父が彼のお母さんへの骨髄移植を拒んだこと、お父さんは外で女の人を作っているというような話を聞いたくらいだ。私としてはそんな大人の世界の話、ましてや人の家のことにどう反応して良いかわからないので、ただ頷いているだけだった。だから基本的にはいつもゲームか漫画の話をしていた。将来の夢とか、好きな女の子のこととか、普通の男子なら話すのかもしれないようなことも一切話さなかった。そんなことを話すのは恥ずかしかったのか、現実に嫌気がさしてほとんど架空の世界に生きていたからかはわからない。そういうことを話し合っていればよかった、そうしていれば今も交流が続いていたかもしれないという思いとそれでよかったんだという思いが交錯する。

中学3年の時、彼の母親が亡くなった。葬儀のとき、妹は泣きじゃくっていたが、彼は涙を見せなかった。今なら、どれほど彼が悲しみを抑え込んでいたかわかるが、その当時は考えも及ばぬことであった。葬儀が終わってしばらくして彼もまた学校に戻ってきたが、私たちはどう話しかけて良いかわからなかった。この時のことだと思うが、彼が学校を休んでいる間、誰かが彼の机にガラス瓶を花瓶に見立てて置いていたような記憶がある。こんな残酷な冗談も私は笑って見ていたのだろうか。学校で起こった馬鹿げた出来事を思い出すたび、その時私はどうしていたのだろう、I君はそして私が小学5年生の時から想いを寄せていたOさんはどうしていたのだろうと思うのだが、思い出せない。覚えていないということは誰もそのことに対して表立って抗議はしなかったのだろう。ともあれ、この時も彼の方から笑顔で私たちの輪の中に入ってきて、私たちはまるで何事もなかったかのようにまたくだらない話を始めるのだった。

一度、友達何人かで話している最中、彼が私に「親友だと思ってたのに」と言ったことがあった。冗談めかしてはいたが、私のことを親友と呼んでくれたのは後にも先にも彼一人である。私はとても不思議な感じがして何も冗談で返すことができなかった。

高校受験が近づいてくると私は父の指導のもと必死で勉強することになった。欠席続きで内申点の悪かった私は中堅校に入るにもそれなりの高得点を取らねばならず、担任のもっと下のランクを受けるようにという助言を無視してのことだった。一方の彼は余裕で行ける高校を選択していたので、皆がゲームを我慢している中、受験間近に発売されたゲームを早速買っていた。私がゲームを我慢しながら必死に勉強して入れた高校と彼が鼻歌を歌いながら合格した高校は一緒の学校である。

私はこの高校に馴染めず、1年生のはじめ2日くらい行ってから、1学期はほぼ全て休んだ。その間、彼と連絡を取っていたのかは覚えていない。当時は携帯電話と言えば、かなり遊んでいる一部の高校生だけが持っているもので、我らオタクには縁のないものだった。彼も高校に入ってからは卓球部に入ったので忙しくしていたのかもしれない。

2学期になって学校に行くようになると、自分のクラスに居場所のなかった私は昼食を食べ終わるといつも彼の待つ図書室に行っていた。彼はいつも「ペパーミントの魔術師」のようなライトノベルを読んでいた。この頃になると中学生の頃ほど遊ぶことは無くなっていたと思う。それでもたまに行き来して彼が私の家で夕食を食べていくことも何度かあった。母は彼のことを気に入っていて、「白いチノパンが似合うね」と言っていた。そんなある夕暮れ、彼がうちから帰るとき、ボソッと「お前はいいなぁ」と呟いたことがあった。私にとっては居心地の良い反面窮屈な家でもあったが、母親が作り出してくれる温かで家庭的な雰囲気は彼には羨ましく映ったことだろう。

3年生のとき、ついに彼と一緒のクラスになった。大概、何をするにも一緒にしていた。けれど、迫ってきた大学受験のことを話すことはほとんどなかった。そして、ゲームの趣味も少しずつ変わっていた。私が変わらず、有名な大作ゲームを楽しみにしていたのに対し、彼はもっと静かで内容のあるゲームを求めていた。それでも、彼はうちに「エリア88」という漫画を全巻持ってきてくれたり、彼が見つけたマニアックなゲームを貸してくれたりしていた。

一度、受験のことを話したことがある。確かもう秋頃だったと思うが、彼が小論文の模範解答を見ながら、「結構ちゃんと書かなきゃダメなんだなぁ」と言ったことがあった。Z会の通信教育と参考書で勉強していた私は「そんなん当たり前やん」と思ったけれど、何も言わなかった。

年が明けた頃から彼は胸が痛いと言うようになった。現在のようにちょっとした知識があればなんとかしてあげることができたかもしれないが、当時は病気を自分で治すということは考えなかった。それから少しして担任が「I君は肺水腫で入院しました」と言った。お見舞いに行こうと思ったが、担任に入院した病院を聞くのも面倒くさく、と言って彼の家に電話するのも嫌で、結局そのまま行かなかった。

2週間くらいして彼は戻ってきた。彼が母を亡くした時のように私は彼に話しかける言葉を持たなかった。そして今回は彼も笑って話しかけてくることはなかった。私は彼にも自分にも理不尽な怒りを感じていた。なぜ友達が入院したのにお見舞いに行かなかったのか、なぜ、こんな大事な時に病気になるのか。そして何より、異常なほど肥大した自我は受験に失敗することが怖くてしかたなかった。自分がどこの大学を受けるかをひたすら隠したかった。思い出す景色はひとつだ。彼はグラウンドに続く階段の観客席の上に学ラン姿で立っている。私たちは体育の授業が終わり、校舎へ戻ろうとする。彼の姿が目に入るが、私は声をかけない。代わりに誰かが彼に話しかけている。彼は私の方を見ていたような気もするが、私はそのまま校舎の中に入っていく。

私は意中の大学に合格したが、高校のレベルからするとかなり珍しいことで、それが人に知られることさえ恥ずかしかった。そして、卒業式も欠席し、後日、職員室に卒業証書を受け取りに行った。

そのまま彼と会うことはなかった。恐らく、高校を卒業してしばらくは同じ家で暮らしていただろうし、仮に一人暮らしをしていたとしても電話してみればお父さんか妹が出て教えてくれただろう。けれど、私はそうはしなかった。

20代の頃、中学生の日々が懐かしくて仕方なかった。現実には嫌なこともたくさんあって、苦しい日々だったが、記憶の中で、その日々は輝いていた。当時遊んだゲーム、友達の姿、淡い恋心、そんなものが懐かしかったのだ。今、日々は満たされていて、もう14歳の頃を懐かしく思うことはない。そして、彼についても随分美化した記憶をもって、それに応えなかった自分を責めていたと思う。しかし、実際には彼も私が学校に行かずに家で苦しんでいた頃、助けには来てくれなかったし、中学の修学旅行のグループ分けでは休んでいた私は仲間はずれになり、彼は他の友人たちとグループになっていた。

どうしてこんなことを書こうと思ったのだろう。書くということ、書かれるということにどんな意味があるのだろう。ただ確からしいのはここに書いたことは書かれるのを待っていたということだ。私がブログに誰かの役に立つことを書いて検索上位に上がるようにと四苦八苦して結局何も書けないでいるのをやめて、書きたいことをなんでも書いてみようと思ってわりとすぐ、他の書いてみようかと思っていたことよりも先にここに書いた文章の大枠が夜寝る前に浮かんできた。ここに書いたことがこれらの出来事にとって慰めになったのか喜びになったのか私にはわからない。けれど、どこかに悔いのある出来事にもう一度向き合うことで、それでよかった、この形以外はなかった、少なくとも今の私にとっては、ということがはっきりしたのは収穫であった。

今となっては彼が生きているのか死んでしまったのかさえわからない。しかし、それもどちらでも構わない。人が一緒にいられる時間は前もって決まっているのだから。

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アトピーが導いてくれた その2

太極拳を始めたことで、体力がついてアトピーも安定してきた。自然と教室に来ている人とも関わるようになり、朝から酒を飲んで練習に来るおじさんと昼ごはんを一緒に食べて帰ったりしていた。教室は木曜日の午前中で私のほかにもう一人整体師の若者がいたが、あとは引退した人たちばかりであった。けれど、誰も私がそんな時間に通っていることを気にも留めていなかったと思う。お金はどうしているのと思われても仕方ないが、もちろん親に払ってもらっていた。それは師の教えでもあった。使えるものはなんでも使ってこの状況から抜け出した方がいいよ。親にお金を払ってもらってもいいじゃない。そう言われて、私も気にせず通っていたが、師は習い事だけしてなかなか仕事を始めようとしない私に厳しくなっていた。この頃、セラピストに憧れて、その勉強の意味もあってホメオパスの元に通っていた。その効果はあまりわからなかったが、県内では有名なローカルチェーンの書店外商部でのアルバイトが決まったのは、ホメオパスが確信をもって処方してくれたレメディを摂った直後だった。

アルバイトとはいえ、仕事をするようになって、いくらか自信がついてきた。太極拳に通っている人からも輝いているねと言われた。アトピーもこの頃はかなり安定していた。それでも完治するということはなく、私は新しい療法を探し続けていた。

そんな折、師が開いたワークショップである特殊な方法でアトピーが治ったという人がいて、師はもしやってみたいなら詳細を聞いてあげるよと言ってくれた。私は少し考えてこの話を断った。自分の力で治したい。自分の内側にある力で治るはずだ。そういう強い思いが湧いてくるのを感じていた。

野口晴哉さんの『風邪の効用』はその思いに応えてくれるものだった。このときには面白い本を読んだら今度はその場所に実際に行ってみるようになっていたので整体協会の本部に行ったり、会社近くの野口整体の流れも汲む整体師の元にも通ったりしたが、どうもピンと来なかった。

ある日西荻窪で友達を待っている間、駅前の本屋颯爽堂で立ち読みしていると面白いタイトルが目に留まった。『病むことは力』。野口晴哉さんの弟子だが、整体協会からは離れ、自身の組織を築いた金井蒼天さんが書いた本である。そこに書かれている病みながらも、活元運動を通して、自分自身と出会い、回復していく人々の姿は私が探していた治療を越えて、癒やされていく何かであった。

隣町で金井先生の奥さんが活元会を開いていたので、行ってみた。そこはそんなに自分に合う場所ではなかったが、翌日の排泄が気持ちよく、活元運動によって体が変わることは確かだった。そこで今度は池袋で別の弟子が開いている会に参加してみた。そうお察しの通りここが私の求める場所だった。こうして当時はただしつこさの賜物だと思っていたのが、実は何か不思議な力によって導かれていたのではないか、と思うようになったのは最近のことである。この活元運動の会にときには週に2回通い、個人指導も受けることで、人生に勢いがついてきて、ついに韓国に一人旅に行くまでになる。

アトピーがあって、億劫になることは旅行と恋愛だろう。旅行は寝具を汚したらと思うし、こんなにボロボロの肌では誰も好きになるまいと決めつけるのだ。つまりは自分に自信がないのだ。その上、家から遠く離れたときや水分が足りないときに不安になる傾向もまだ残っていた。仕事をするようになってからは沢木耕太郎さんの『深夜特急』の番外編『旅する力』の少年時代の沢木さんを真似てホテルの予約もせず、各駅停車に乗ってあてもなく旅をすることを長い休みのたびに繰り返していた。それでも海外に一人で予定も立てず行くのはなかなか勇気のいることだった。

その後、気づけば6年も続けていた書店外商でのアルバイトをやめ、船で中国に渡り、目的地は陸路でインドと定めた旅に出るときも、なかなか出発せず、ぐずぐずしていたが、活元運動の先生に背中を押され、自分でも日本にいても死ぬときは死ぬのだと出発したことを思い出す。

結局、インドどころか、香港からベトナムへバスで行こうか迷った挙句、旅で新しいものを受け入れるのがお腹いっぱいになっていたので、北京に寄って帰国することにする。帰国後、書店員でも旅人でもないただの私に戻った私はまた不安定になり、アトピーがひどくなる。でも、香港にいたときにこれまでにないほどの回復を経験していたおかげでまた船に乗って中国に行けば治るんだとそこまで悲観しないようになっていた。

また偶然の本との出会いが私の人生を進めることになる。そろそろこの記事のタイトルを本が導いてくれたに変えてもいいような気がしてきた。本の名は『わら一本の革命』。アトピーのために母が食事に気を遣ってくれていたので、生協のカタログを通して有機農業には興味があった。しかし、身近に畑仕事をしている人は知らないし、農業には機械と土地が絶対必要だと思っていたので、自分には縁がないと諦めていたのだ。それがこの本を読んで変わった。なんとなく自分でもできそうな気がしたのだ。これは勘違いだったとも言えるし、けれど今実際に機械なしでお米を作ることができたのだから正しかったとも言える。農地も厄介者扱いされるようになったのはちょうどこの頃からなのではないか。色々な農家を回った末に著者の故郷愛媛の福岡自然農園に赴き、研修生として受け入れてもらう。日々の野外でのなかなかきつい仕事はアトピーには良かったらしく見る間に回復していく。

正規の仕事をしたこともなく、アトピーで、実家に暮らしていた私は恋愛に全く奥手だったが、農園では研修に来ていた女の子たちと仲良くなることができた。それは香港で亜熱帯の島特有のスコールを浴びながら、こんなに遠くまで一人で来れたと涙したのと同じく、かつて自分がいると思っていた場所からはるか遠くに来た出来事だった。

その後、私は農園で出会った女性と結婚し、農園を二人で旅立ち、今は島の自然の中で私たちがやることを探しながら暮らしている。その間にもまたアトピーがひどくなることはあったが、四柱推命の占い師の方に教えてもらったようにアトピーがひどくなるというのは何かが間違っていることを教えてくれているのだと思えるようになった。

そして、今信頼を寄せている整体師の先生の言う通り、自分自身に戻ることができたらアトピーは治るのだと知っている。もちろんアトピーだけでなく、他の病気もそうらしい。

アトピーはいつも私と共にあり、私を導き、私の行動を規定してきた。それは不自由なことも多く、理不尽で度々私を怒らせてきた。今後もアトピーで苦しむこともあるかもしれない。けれど、私は知っている。アトピーはそうやって私を導いてくれている。私が歩むべき道を歩むように。

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アトピーが導いてくれた

生まれたときからアトピーである。生後6ヶ月の写真ではアトピーらしい少し赤みがかった顔をしている。それでも中学生まではたまに薬を塗るだけでさして不自由もなく暮らせていた。だが、中学に入るとストレスとホルモンの変化がアトピーにも大きな影響を与えるようになる。高校に進学してからも一年、二年次の半分は学校に行かず、家でゲームばかりしていたせいもあって、とても悪化した。目の下の皮膚の薄い部分がめくれ、とても痛かった。図書館に行き、本を調べ、電車に乗ってその本おすすめの皮膚科医に通ったが、結局は通常のステロイド治療であり、皮膚は多少治ったが、病症が内側に抑え込まれただけのことであった。

薬を真面目に塗り始めてしばらくして、暑くても汗が出ないことに気づいた。母に言ったが気のせいでしょという感じであまり取り合ってもらえなかった。私もそれでなんとなくまあいいかと思って、忘れてしまっていた。しかし、大学二年生のとき、夏に散歩中に熱中症になり、それがきっかけとなって暑くなると動悸がしたり、眩暈がするようになったりして、いつしか電車にも乗れず、半寝たきりのような暮らしになってしまった。

夏が過ぎ、涼しくなるとどうやら起き上がって外に出られるようにはなったが、ごはんが喉を通りにくかったりと気分はそんなに良くなかった。自分の人生も日本という国も地球も全てお先真っ暗のように思っていた。

その頃よく通っていた古本屋に『タオのプーさん』は置いてあった。その本はそれまで読んできた本、マンガ、ゲームとは別なことが書いてあった。今まで私が触れたものにはどれも争いが描かれていた。ゲームやマンガは戦いがなくては成り立たない。しかし、大学に入ってから読むようになった本も皆なんらかの形での争いが描かれていた。それは例えば自己批判や他人、社会への批判、難解な理論をこねくり回すことなどであったのだけど、目には見えなくても根底には調和ではなく闘争があった。それは長年の教育の結果身についていた私の生き方にも合致していた。『タオのプーさん』には周りの人や自然と調和して、自分のままで生きていくことがくまのプーさんを通して描かれていた。その読後感は不思議なものだった。これでいいのという感じだった。

それで、私は全てを悟り、調和のうちに人生を終えたということにはならなかった。この本がとても素敵なことを話してくれているのはわかったが、日々の暮らしでどうしていいのかはさっぱりわからなかった。それで私は以前のように些細なことで怒りながらそれでもタオイズムの本やくまのプーさんをはじめとする児童文学を読み漁っていた。

『タオのプーさん』は不思議な本だ。この本の監訳者の吉福伸逸さんはその後出会うことになる私の人生の方向を完全に変えてくれた人の師匠のような存在だし、著者のベンジャミン・ホフさんがやっているという太極拳は私も数年後習い始め、今でも毎朝練習している。ちなみにホフさんの仕事は植木屋のようだが、この本を読んで15年以上経って植木屋で働いてみたのもこのときの憧れからかもしれない。

こうして絶望の闇の中に一条の光が差し込み、私は少しづつ回復していった。近所の漢方薬局に通うようになり、漢方薬を調合してもらって、ステロイドをやめた。離脱症状はかなりひどくて毎晩血だらけになったが、薬剤師の支えで乗り切れた。祖母に紹介してもらったカイロプラクティックにも通い始め、姿勢もだいぶ良くなった。このカイロプラクティックの先生には太極拳を始めたらと言われ、今はなき日本気功協会で太極拳の師に出会うことになるのだが、当時の私には太極拳がわからず、2回行ったきりやめてしまった。2回目のとき、手持ちのお金が2000円しかなく、体験料のうち500円が払えなかったので、後日横浜そごうで開かれていたカルチャーセンターの先生の教室に行こうとしたのだが、あまりに場違いな雰囲気に尻込みしてしまい、500円は借りたままになっていた。

数少ない友達の助けもあり、なんとか大学は卒業したが、就職活動はとてもできなかった。四年次の終わり、卒業式も間近の頃に学生課に求人票を眺めに行ったが、コーンスターチの会社の募集しかなかったのをよく覚えている。どんな企業であれ、自分がスーツを着て、会社で働いている姿というのは想像できなかったし、自分に社会に出て仕事をする力があるとは全く思えなかった。

こうして私はどこへも行かず、家にいて図書館で本を読むことを選んだ。実家にはいづらくて、祖母の家にいることも多かった。そんな日々にアンドルー・ワイル博士の『癒す心、治る力』に出会った。この本は『タオのプーさん』を読んで感じた疑問、でも毎日大変なんですけど、どうしたらいいんですかという疑問に食事、運動、瞑想などの具体的な内容で答えてくれていた。そしてその根底には『タオのプーさん』と同じ争わない心があった。ワイル博士を経て、ラム・ダス、マハラジ、グルジェフとそんなことが現実にあるとは数年前までの自分だったら信じられないようなことが書いてある本に巡り合うことができた。

しかし、全ては本の中の出来事であった。現実世界に立ち返ると私は変わらず、無力であった。この頃、アトピーはプロトピックという薬を使ったことがあるからという理由で治療自体は断られた漢方医院で教えてもらった砂糖と肉などの油っぽいものを一切断つという極端な食事法により、一応の落ち着きを見せていた。だが、パニック障害のようなものは治らず、電車に一人で乗るのは恐怖であった。

そんな夏のある日インターネットでグルジェフのことを調べていた私は彼の孫弟子がイギリスから日本に来てワークショップを開くという記事を見つけた。詳しくは覚えていないが、参加費は高くなく、誰でも参加できるものだった。会場は秋葉原。東京まで一人で電車に乗るのは無理だったので、迷ったが、ついに当日に申し込み、そのまま慌てて母に秋葉原までついてきてほしいと頼み、電車に乗った。2008年7月。暑い日だった。大学を卒業して3年半が経っていた。

ワークショップの主催者の方が迎えに来てくれていたが、後で影から見ていた母に聞いた話によると、彼は駅で誰かを待っている風の人に誰彼構わず話しかけていたらしい。一応、私の外見的特徴をメールで送ったはずなのだが。ともあれ、やっと私が見つけ出され、駅なかのカフェで面談してから会場へ行くということになった。その前に面談を受けていたのは小太りのおじさんであった。数分待つとおじさんの面談は終わり、私が呼ばれた。彼との面談で、卒業して半年ですと嘘をついたのは覚えている。半年か、そろそろまずいなという彼の反応も。いや実はね...

この私の前に面談していたおじさんこそ、その後の私の人生をすっかり変えてしまうことになる教えを授けてくれた人であり、私が初めて出会った本の中にしかいないと思っていたような人物であった。それは私がグルジェフやマハラジの本を読んで長らく待望していた師と呼べる人だった。

帰りの電車の方向が一緒だったので、色々と話してもらい、後日もう一度ワークショップで会い、習い事でもなんでもいいからまずは外に出る練習をして仕事を探すのはそれからにしてごらん。梯子を一段づづ登るのと同じでいきなり大学教授になりたいと言ってもそれは無理な話だよと言われた私はとてもゆっくりなペースながら、習い事を探し始めた。

いくつか試したのち、ふと思い出して、4年前に2回行き、500円借りたままになっている太極拳の先生に連絡を取ってみた。実は習い事を探し始めたときにもメールを送ったのだが、そのときは返信がなかった。今回はすぐ返信が来て体験は許可された。水道橋にある教室に入った瞬間、ここが探していた場所だとわかった。先生も前回とは比べ物にならない熱心さで教えてくれた。

こうして私の人生は二人の師によって彩られていった。まだ小さな一歩を踏み出したばかり、でも誰かが言っていたように師に出会うことができたなら、人生半分はクリアしたようなものなのだ。